MONMON PRESS
エッセイマンガ家 イラストレータ- MONの仕事
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すべらない話(長い)
昨日から、スケート、すべらない話、スケート、今日もスケートと、久しぶりにテレビをがっつり見いていました。

「すべらない話」が大好き。そのなかでもシンプルな話が好き。もう、いつのだか記憶が曖昧ですが、ほっしゃんの「ガス代」や「パラシュート部隊」の話とか、誰か忘れたけど、並走する電車で昔好きだった女の子を見かけた話とか、千原ジュニアの兄の小学生のときの話とか、きのうのだと、銭湯でスーツ盗まれた話が好きでした。
昔からじぶんはリアリストだと思っていたけれど、たぶんやっぱりそうなのです。実社会にはごろごろとおもしろい人生がころがっている。それは実話だからおもしろい。だけど、語りがつまんないとおもしろくない。そして、シンプルな話でも、細かいところがちゃんとうまくシンプルに語られてないとおもしろくないんですよね。銭湯のスーツ泥棒の話も、被害者が東京の人だったってとこ抜かすと面白さ半減なわけだから。そういう語りのセンスがのどからて手が出るくらいほしいです。
わたしがマンガを書いている、書きたいと思うのは、すべらない話をしたいからなのではないだろうかと思う今日このごろ。すべってないかどうかは別にして(すみません)。

すべらない話ひとつひとつは、4コママンガみたいなものかもしれません。でも、それを同じ登場人物で続けるとか、ページもののエッセイマンガにするとしますと、すべらない話のひとつでは足りません。
わたしの脳内ハードディスク(メモリは約2メガと言われている)には、過去ウン10年間に、「これは人に言いたい」と思って保存した小ネタや風景が動画で圧縮され、似たようなネタのフォルダにそれぞれ入っていて、マンガになってお外に出られる日を待っています。ときどき虫干しみたいなかんじで、飲み会なんかでちょっとネタふりをして、ウケるかどうか確かめて、また格納したりもします。何かがつながっている3~5個くらいのネタと、それらネタの底に流れる「気持ち」と、それらをつなぐ全体を流れる語り口と、とっかかりのアイデアとオチが立ち上がってこないと、なかなかページもののエッセイマンガになってくれません。旅もののレポートを書くときも、その旅で起こったことだけでなく、なるべく重層的になったらいいなと思っています、一応。。。

でも同時に、しょせん身の回りのことでしかないその限界もわかっていて、だから、マンガでも小説でも映画でも、大きなストーリーテリングに憧れます。
書き手としての自分をはるか手の届かない棚にあげて、見る側読む側のわたしはとっても厳しい。書き手が何を言いたいかとか、どんな気持ちで描いたかとか、製作中の苦労とか知りたくもなく、とにかくできたものに楽しませてもらえたかどうかだけを評価するのです。
わたしはモーニング連載時に、山手線で前に座っていた若いサラリーマンに、目の前で自分のページをとばされたのを目撃しておりますので、両方の気持ちがわかってるつもり(もちろん書き手としては、心がぽっきり折れますが←まだその時のサラリーマンの姿を覚えてる)。

すごくよくできたフィクションはリアルを感じさせてくれる。フィクションの世界にどっぷりはまれるかどうかは、リアルにかかってると思う。リアルがしっかり描けているからフィクションはなりたつ、リアルがわかんない人にはフィクションは描けない(これは学生に必ず言うことにしています)、やはり、リアルを語るセンスが必要なのじゃないかと思うのです。
イッセー尾形の芸だって、リアルがあまりにも細部までリアルだから、全体のフィクションが暴走するのがおもしろいのだし、ナウシカに出て来るメーヴェ(ナウシカが乗ってるグライダーみたいの)は、自分にもできそうだからぐっとくる。スターウオーズの木々をよけて飛ぶ乗り物はないけれど、あのスピード感は、練習したらオレにもできるかもしれないみたいな気持ちになるのだし、未知との遭遇のUFO(宇宙人はおいといて)もありそうです(←その前のエピソードがこれまたありそうなものが積み上げられている。夏の虫の鳴き声とか。わたしはいまだに、夏にジーっていう虫の声を聞くとこの映画をふと思い出します、で、夜道の向こうからびゅんって光が来たらどうしよといつも思う)。
うーわ、ありえない、ありえないけどありそー、ありえないけどその気持ちわかる、と思わせるセンスというのかな。

そして、できあがったもののどこにきゅんときちゃうか、っていうのは、それぞれ個人によって一緒だったり違ったり、そんなところで?と思ったり思われたり、だから語り合って面白いんですよね。
と、この話は、長い長い前フリなのです。
ショーン・ペンの「イントゥザワイルド」と、その原作、ジョン・クラッカワーの「荒野へ」。「荒野へ」をわたしがもし映画化するとしたら(ありえないってわかってますとも)、まったく違うものになると思うから。それは、ショーン・ペン(なれなれしくてすみません)とわたしが、原作の語りのセンスのどの部分にきゅんとなったかが違うからにほかなりません。
もちろん、やらない人があれこれ言うのが簡単なのです。プロ野球でも、オレだったらこうするとファンが言うのは簡単だけど、監督できるかっていうとできっこないんです。はい、それはわかったうえで。
以下は、映画も原作もネタバレですので両方見てない方にはおすすめできません~すみません。
原作と映画が違うというのは、どうでもいいことなのです。映画化した人の特権だと思いますので、それでよいのです。だけど、プロ野球ファンのおっちゃんの気持ちになって言うとしたらーーー。
「荒野へ」のほうがわたしは好きだった。ちょっとでも、ほんとうのクリス・マッキャンドレスが知りたいと思う者にとっては。こちらはドキュメンタリーですけど、もちろん、残されたものからの推測でしかありえないし、100%の客観なんてありえない。原作者のジョン・クラッカワーの主観も当然ばりばり入っていますし、若いときに若さの勢いでむちゃな登山をした自分の話もかなり入っているし、主人公のクリスと似たような行動をした過去の人物の話も取り入れています。クリスの気持ちがわかるような気がするというところから、そもそも取材ははじまったのですし。

でも、語りとしては取材者として、あくまですこし離れたところからクリスの足跡を追っています。原作では、両親との確執も川下りもさらっとしか出てこないし、北欧のカップルも出てこないし、旅で出会うヒッピーの人や少女とのエピソードも、さほど重要なかんじではありません。そして、さいご(じつはさいごではない)に出会うおじいさんは、あのあと実は家を出てクリスがキャンプしていた場所にテントを張って、7ヶ月クリスを待っていたのです。わたしなら(出た、プロ野球ファンのおっちゃん!)ここをぜったい入れるし、もっともっとあちこちの街で働いたエピソードとかをロードムービー的に淡々と追いたいと思います。ラストもさらっとしたいな。そのほうが、あっけなさが伝わるような気がします(言うだけは易しい)。

だけど、そうしたくなかったショーン・ペンの気持ちもわからないでもないです。ショーン・ペンはたぶん、すっごく自分とクリスをだぶらせて想っていて、こうあってほしいというような、かなりあこがれた視点で映画を作ったのではないかと思う。男子だからかもしれませんね。もしかしたら、原作にないエピソードやセリフは、その後の取材でほんとうにあったことなのかもしれない(映画の英語サイトには、いくつかの場面は「原作を誇張した」と書かれてありましたが)。だけど、作ったのだとしたら(わたしが「実話好き」だからなだけではなくて)、登場人物の名前も変えて、これは原作にインスパイアされたフィクションとするべきだったのじゃないかなと思いました。もちろん、だからといって、映画じたいの評価を下げるものじゃありません。

皮肉に思うのは、映画では想いをこめたラストが、クリスを否定的に見てしまう人には「アホやなー」ととられてしまっておわりなのに対して、「荒野へ」のラストでは、登山家としての著者が、自分の経験ももとに、青いのはあたりまえなのだ、これだけの装備でこれだけやったのはえらいのだ、あの植物のあの部分に毒があるとあの時代わかっていなかったのだ、アホな若者ではなかったのだと、しみじみと優しい視線でしめくくっていることなのでした。
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